院長プロフィール | 福岡 太宰府 腰痛 肩こり 頭痛の整体 鍼灸ならすざく鍼灸整骨院

院長 赤星秀一 あかほし ひでひと

院長 赤星秀一

経歴

  • 熊本県立御船高等学校 卒業
  • 九州保健福祉大学 視機能療法学科 中退
  • 福岡医健専門学校 鍼灸科 卒業
  • 福岡医健専門学校 柔道整復科 卒業

国家資格

  • はり師免許
  • きゅう師免許
  • 柔道整復師免許

MY STORY 〜僕もみんなと同じことがしたい!!〜

「アナタは無理しちゃダメよ」
「赤星、キツかったら外れて良いぞ」
「お前は見学してろ」

すざく鍼灸整骨院の赤星です

赤星です

母は教師・父は役場の職員と両親がともに公務員・祖父は元福岡県警の警視正というお堅いお家に生まれ、父・母・祖母・祖父・6歳年上の姉・4歳年上の兄の7人家族の末っ子として、高校卒業まで熊本県御船町のド田舎で育ちました。
見渡す限りの田んぼが広がり、近所の人はみんな顔見知りで悪いことをすれば近所の大人に怒られるような、昔ながらの田舎町です。

見事なじいちゃん・ばあちゃんっ子に育ち、兄弟の中でも一番甘えて育ちました。

 

生まれつきの心臓病

一番甘えさせてくれた理由は、私が生まれつき心臓病だったかもしれません。
生まれた時は健康上、何も問題ないとされたのですが、1ヶ月検診の時に心音がおかしく精密検査をしたところ「大動脈弁狭窄症」と「心臓の肥大」が発見されました。

心臓から出て行った血液は、初めに大動脈という大きな動脈を通ります。この動脈に送った血液が心臓に戻ってこないようにするためのフタが大動脈弁で、心臓の「ドックン」という音の「クン」は、大動脈弁が閉まる音です。

この大動脈弁は、通常3枚に分かれており別々にフタをするのですが、私の場合は3枚とも引っ付いていたので完璧にフタができず、心臓から送り出した血液が戻ってきてしまっていました。この病気は失神や心臓に強い痛みが出現したら、2~3年で命がありません。

その時にお医者さんからは「おそらく、15歳までしか生きられません」このように母親に告げられました。「超」が付くほど真面目な母親はショックのあまり、病院からどうやって家に帰ったかは覚えていないんだそうです。そして、私の制限のついた生活がスタートしました。

それでも、まだ保育園の頃はできることもあったのですが、小学校に入ると制限が一層厳しくなりました。

走ってはダメ・息切れを起こしてはダメ・長く泳いだらダメ・人と同じことをしてはダメ。生活の中で、本当にやってはいけないことだらけでした。

マラソンも走ることはできずに、校外を走る皆をグランドで1人待っていました。水泳の時間も泳げないので、泳いでる皆の横をずっと水中歩行していました。サッカーも走れないので、毎回キーパーでシュートは打てません。毎月1回、学校を早退して病院で精密検査。

好奇心が強く・目立ちたかった私にとって、制限の多い子の生活にはとても不自由さを感じていました。

こんな生活を送っていた私を見兼ねて、祖母と祖父は甘やかしてくれたのでしょう。動けない分、お菓子を食べさせてくれました。母親は子供達の体のことを考え、自宅にはジュース・お菓子・レトルトの類はなく、食事は手作りで薄味に作ってくれました。その反動でお菓子を欲しがった私に(姉と兄も)、祖父と祖母は毎日のように与えてくれました。そのおかげもあって、心臓病ながら私の体は学年で1番の身長と体重になりました。

 

手術決行

そんな私にも転機が訪れます。
小学校5年生の時に手術をすることになったのです。手術は大動脈弁を取り除き、カーボンで作られた機械弁を装着する「弁置換術」というものでした。

15歳まで心臓が持たないことは元々分かっていましたが、早くに手術をして弁置換術をすると心臓の大きさに合わなくなり、再び手術のやり直しになります。そこで、私が将来どれくらいの身長と体重になるかを計算した結果、小学校6年生で手術をしました。

驚異的な回復を見せた私は手術後、12日で退院しました。
一時は安静でしたが、手術後も制限はあるとはいえできることが多くなり、中学生になれば部活にも入れるようになります。「手術は痛かったけど、耐えて良かった」そう思い、何の部活に入ろうかばかり考えていました。

 

まさかの再手術

しかし、中学校1年生になってすぐ、制服のYシャツが何かで濡れていました。胸から変な汁が出ていたんです。その時は深く考えていらず、「皮膚科に行くって言ったら学校を休めるな」くらいにしか思いませんでした。

病院に行くと、まさかの再手術が決定。
胸を開いてみると、心臓の手術の際に人工心膜(人口の心臓の膜)を付けたのですが、私の体には適合せずに拒絶反応を起こし溶けたチーズのように化膿していたことを再手術後に手術を担当してくれたお医者さんからお聞きしました。当時、最新の心膜をアメリカから取り寄せて使用したのですが、日本で4人拒絶反応を起こした人がいたのですが、私はその内の1人になってしまったのです。

最初の手術から数えると計3回の手術を行い、ようやく私は部活ができるようになった時は中学2年生になっていました。ちなみに、部活はソフトテニス部に入り真面目に取り組みました(笑)

 

初マラソン大会

手術をしたおかげで、中学校3年生の時に初めてマラソン大会を走ることに。
男子と言えど中学生なので、距離はたったの5㎞で、結果も大した順位ではありませんでした。しかし、人生初のマラソンはキツくて・楽しくて・応援してもらって最高でした(笑)!!
今までマラソン大会に出場したことがなかったので、クラスメイトがどこを走ったかなんて知らず話しを聞くだけでしたが、共有できたことが嬉しかったです。

そして、マラソン後は全校生徒が待ちに待った炊き出しです。私たちの中学校は、おにぎり2個と豚汁とスポーツドリンクが配られます。実は炊き出しも友達と一緒に食べたことがありませんでした。

マラソン大会に出ない人は記録係と後片付けを担当するので、私が炊き出しを食べる頃はみんなは食べ終わってマラソンの感想などを楽しそうに話している時でした。友達は「遅くまでご苦労さん」と言って文句を言う友達なんて1人もいないのですが、自分は走ってもいないのに炊き出しを普通に食べていることに、少し罪悪感を感じていました。

皆と同じようにマラソンを走って、炊き出しを食べて、「あそこキツかったよね」なんて共有する。

体育や水泳の時間は外れるもの…
皆が部活に汗を流すときに横目で見て帰るもの…
マラソンは走らず応援するもの…
炊き出しは最後に食べるもの…
皆と同じ事ができないもの…

私にとってできなくて当たり前のことが、できて当たり前になった時の感動は忘れられません。
「皆はこんなに自由で、楽しんでいたんだ!!」
そう思うと、自分もみんなと同じようになれたことにふわふわした変な気分でした(笑)

 

将来への道筋

高校に入る頃には小さい頃から病院に通い続け、手術をして長い期間入院もした経験から総合病院での医療体験会や老人ホーム・福祉施設などのボランティアに参加させてもらい「将来、自分も医療・福祉の分野に進みたい」と、今の道に進めキッカケとなりました。
一時は、視能訓練士(眼のリハビリの先生)になるための大学にも通いましたが、「自分で自分の好きな治療で患者さんの役に立ちたい」と大学を辞めて鍼灸学科へ入学しました。

朝から鍼灸学科に通いながら、午後から整骨院で修業をさせていただきました。
ここまでお読みになった方は気付かれたかもしれませんが、私は整骨院で働かせていただくまでに整骨院に行ったことがありませんでした。
「柔道整復学科と鍼灸師学科どっちに行こうか?」と悩んでいた時も、「同じ3年間ではり師ときゅう師、2つの免許を取れるならお得」という理由で、鍼灸学科に入学しました。

修行ををさせて頂いた整骨院の院長先生は女性で、老若男女問わずに頼りにさせており治療をされるだけではなく、女性ならではの患者さんへの気遣いなどを学まさせて頂きました。

3年間、整骨院で修業をさせて頂きながら鍼灸師の国家試験に合格したのですが、「もっともっと患者さんの役に立つために、治療の幅を広げたい」と思い、鍼灸学科の卒業と同時に柔道整復学科の夜間部に入学しました。
柔道整復学科に入学してからは、朝から夕方は鍼灸師として整骨院で働き・夜は学校に通いました。

修業時代とは違い、鍼灸師として治療にあたっているときは、学生と言えど先生なので責任も大きく学校の勉強と治療の勉強で正直大変でしたが、自分が成長できる充実した日々を過ごさせていただきました。

そして、歳だから・痛みがあるから「できなくて当たり前」と思われていおる方を「できて当たり前」にのお手伝いをさせて頂きたくて、太宰府市に開業させていただきました。
私は自分の心臓の手術を通して「できなくて当たり前をできて当たり前に」する感動を知りました。1人でも多くの患者さんのお役に立てるよう、精一杯治療にあたらせていただきます。

精一杯治療にあたります

院長 赤星秀一

(柔道整復師・鍼灸師 赤星秀一 監修)

インターネット予約はこちら
電話予約はこちら